編集後記


2009年10月24日(土) [長年日記]

奈良へ:興福寺

戻ってきた阿修羅像を拝観してきました。

今回は興福寺特別公開「お堂で見る阿修羅」。阿修羅像を中心に、現存する八部衆・十大弟子像を仮金堂に安置するという企画です。

国宝の北円堂も公開。拝観料は、仮金堂・北円堂合わせて1500円。

ちなみに、特別でない日は、阿修羅は国宝館で500円で見られます。たぶん距離は上野よりもたぶん福岡よりも仮金堂よりも、ずっと近い(福岡は行ってないので知りませんが上野と同じ感じなら)。ただし国宝館はガラス越しです*1

近鉄奈良駅から東向商店街を南下、三条大路に突き当たったところにあるうどん屋さんで昼食。学生時代よく通った店です。店はたぶん建て替わっていると思います。こんなに狭くなかったような・・・・二階なんてなかったような・・・・

その近くに、高速餅つきで有名な中谷堂があります。

餅つきは見られませんでしたが、ここのお餅はやわらかくてなめらかでおいしい。

さらに進むと猿沢池

亀さんは相変わらずです。

そして興福寺

 

ええと、

北円堂・・・・50分待ち
仮金堂・・・・60分待ち

・・・・・・待ちましょう(折角来たのだ)。


北円堂
北円堂

藤原不比等の菩提を弔うために建立されたお堂。過去2度焼失していますが、現存する建物は1210年の再建で、興福寺内で最も古いお堂です。弥勒如来を本尊に、運慶一門によって制作された像が安置されています。

運慶一門=もらった資料では「運慶工房」と。なるほどわかりやすい。

ここはしっかり50分待たされました。


続いて仮金堂へ。こちらがいわばメインですが、アナウンスされたよりもずっと早く、30分ほどで堂内へ。

興福寺にはもともと中金堂、東金堂、西金堂の3つの金堂がありました。いずれもたびたび火災に見舞われるなどして、現存するのは室町時代に再建された東金堂だけです。 中金堂は1717年の焼失から長く再建されず、1世紀後にやっと仮堂が建立されました。 その仮堂は、本来は中金堂再建までの仮のお堂のつもりでしたが、結局、比較的最近までつかわれ続け、ついに老朽化のため、1974年に今の仮金堂が建てられてました。中金堂は現代になってついに再建が始まっています。

この仮金堂内で、本尊の釈迦如来の前に阿修羅像が、その左右に八部衆と十大弟子像がずらりと並びます。なかなか壮観です。

こうやって他の仏像と並べてみると、興福寺の阿修羅は本当に異形です。実に仏像らしくない。

上野の時、一段高いところから見渡すことができるようになっていましたが、今回も阿修羅正面に一段高い場所が用意されていました。

八部衆は、もともと西金堂に安置されていたそうですが、いずれまたお堂に安置される日は来るのでしょうか。

*1 10月31日付朝日新聞によれば、国宝館に戻った後も原則露出展示になるようです。

奈良へ:ならまち

最初の予定では、興福寺のあと、いつものように東大寺へ回るつもりでしたが、興福寺でずいぶん時間をとったので、駅に近づく方向で、ならまちへ向かいました。


菊岡漢方薬局

別の観光客の一団から「こういう建物も、昔は使ってたんだろうね」と言う声が聞こえてきました。
・・・いまも使ってます。元暦元年(1184年)から二十四代続く現役の漢方薬局です。

平城遷都の際に飛鳥から元興寺がこのあたりに移されました。その旧境内に発達したのが、ならまちです。

「奈良町」という地名は存在しません。「奈良町都市景観形成地区」が定められていますが、たとえば倉敷美観地区に比べると他地区との境はあまりはっきりした感じはありません。町屋とイマドキの家屋が混在し、普通の町の中に伝統的の町屋がそのまま多く残り続けている印象です。

前に来た時も書いたのだけど、見たことのあるような街並みなのです。ありがちな「どこか懐かしい」なんて紋切り型の感想ではありません。うちの家の近くにも似たような街並みが・・・・・子供のころからするとずいぶん変わってしまいましたが。
やっぱり昔は日本中こんな街並みが広がっていたのでしょう。

ならまちといえば庚申堂と身代わり猿

庚申堂 身代わり猿

身代わり猿は背中に願い事を書けば「願い猿」。家族の願い事を書いた時は玄関の内側に、個人的な願い事は寝室に吊るすのだそうです。

屋外に吊るすイメージが強いですが、奈良町資料館の人によれば、屋外に吊るすのは「家外安全」、町を歩く人の安全を願ってのこととか。

菊岡漢方薬局からまっすぐ北へ歩くと、猿沢の池の南に出ました。

 

*1 いつもと言うほども来ていませんが


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