編集後記


2007年10月06日(土) 姫路城中濠一周 [長年日記]

姫路城中濠一周

ふくださんが中濠を一周したと聞いて、後に続きました。

時間の都合で、一周しただけで、博物館や図書館などには立ち寄っていません。それはまた次の機会に。

国道二号線東行き


拡大地図を表示

国道越しに土塁を見る 土塁

姫路城中濠の南側は埋め立てられ、現在は国道二号線の東行きが通っています。ですが、南側を除く他の部分、西・北・東はそっくり濠が残っています。

姫路城といえば内堀の内側に城郭の大部分がありますが、実は中濠の内側がそっくり「特別史跡姫路城跡」に指定されています。

国道二号線の北側に土塁が残っています。ここより北側が中曲輪で侍屋敷が置かれていました。各所にある立て札の記述によれば城の南側に家老など上士の屋敷が、東と北にそれ以外の家臣の屋敷があったようです。

土塁の内側
土塁の内側。現在は学校や集合住宅などがあり、二号線の喧噪から一転静かな雰囲気になっています。

船場川

内濠と船場川

大手前通りから国道二号線東行きを西へ向い、土塁が尽きたところで船場川に出ます。土手一つ挟んで内濠が始まります。この土手の上を北へどんどん進みます。

車門

車門

内濠の西側には、南から車門、市ノ場門、清水門の3つの門があります。そのうち一番南にある車門。枡型が2つ連続する二重枡型門という珍しい形の門でした。

実はこの門の間から天守閣が見えます。
車門から天守閣
門をはいった目の前が駐車場でちょっと無粋。

景福寺山
景福寺山。
播磨国風土記の十四の丘の一つである「船丘」に推定されている山。

船場川(2)


拡大地図を表示

西御屋敷跡(現好古園)を過ぎてさらに北へ進みます。

内濠と船場川(2)

町屋

途中で絵を描いている人がいました。城を描いているにしては、その位置では建物はほとんど見えない、と不審に思っていたら、城ではなく対岸の民家を描いていました。

ちょっと道をそれてみました。ところどころ古い町屋が残っています。そんなに多いわけでもないのですが。

町屋

たぶん化粧櫓

以前から修理中です。

たぶん化粧櫓

船場川に鷺がいました。残念ながら白鷺ではありません。

鷺

さすがに白鷺だと出来過ぎです。

そういえば架空の豊後関前城の異名は白鶴(はっかく)城でした。白鷺(はくろ)城をもじったかと思ったのですが、実は白鶴城の異名を持つ城は複数実在しているようで。

男山
男山

清水門からさらに北へ


拡大地図を表示

清水門まで来ると、中濠は二手に分かれます。一方は東へ折れ、姫山原生林とシロトピア記念公園の間を通ります。もう一方はさらに北へ延び、野里小学校の前を通って野里口まで。

どっちに行こうか迷ったのですが、中曲輪の周囲を歩こうと決め、野里小学校方向へ向かいました。

清水門を過ぎたあたり

たちまち住宅街に入ります。近所の人がそのあたりで立ち話をしていたり、犬を散歩させる人やら遊んでいる子供やら。観光客がうろついているような場所ではなくなります。お城側の土塁だけが欝蒼と茂って、夏は蚊やら何やら湧いてそうな雰囲気ですが(^^)、でも虫は全然いないようだ。

野里小学校


拡大地図を表示

なにやら立派な土塀が続く一帯です。どこのお屋敷かと思ったら野里小学校でした。さすが、お城に接した学校です。じゃなくて規則でもあるのかな。

野里小学校の塀

野里門跡


拡大地図を表示

さらに東へ歩いて行くと県道にぶつかります。ここに野里門がありました。

野里門バス停から北西方向
野里門バス停から北西方向を見る。

ここで中濠はいったん途切れたように見えますが、

野里門バス停から東を見る
野里門バス停から東を見ると、さらに延々と続いています。なんてでかいんだ姫路城。

鍵町−橋之町−生野町−竹田町−堺町


拡大地図を表示

道路は濠から家一軒分離れているのですが、お濠端は人一人通れるようなので、降りてみました。

堺町付近

土塁の西側は学校と病院が続きます。そっちの方が表通りで、いま歩いている側は言ってみれば裏通り。住宅地が広がった一帯です。やはり観光客が歩くような場所ではない気がします。

終点(総社)


拡大地図を表示

そろそろ帰りの時間を気にしたころ、ようやくお濠が尽きました。

終点

ここから南は播磨国総社(射楯兵主神社)のある一帯です。

おまけ

東御屋敷跡から見た天守閣

東御屋敷跡から見た天守閣

城主の住まいというとお城の本丸、姫路城でいえば大天守南側の備前丸のイメージがありそうですが、実は備前丸に城主が住んでいたのは最初期の池田氏の時代だけで、次の本多氏から三ノ丸に引っ越しました。姫路城の構造を考えると、備前丸より三ノ丸の方が圧倒的に広くて便利です。既に豊臣氏も滅び、城も要塞としてより藩主の住居や政庁としての機能の方が重視される時代が始まっていました。また、本多氏以降、三ノ丸の、特に城主の屋敷のある西半分を「本丸」と呼ぶようになったようです。

江戸時代も後半の酒井氏の時代には、城主も城内ではなく東御屋敷に居住するようになったとのこと。城は幕府からの預かりものという意識があったとか。


プロフィール

星を見る、本を読む、そこらを歩いてまわる・・・→詳しく

注目リンク

バックナンバー