編集後記


2011年05月28日(土) [長年日記]

飛鳥資料館春期特別展「星々と日月の考古学」

毎年、この時期には明日香村を訪ねるのが恒例となっています。飛鳥資料館の春季特別展でキトラ古墳壁画の実物公開に行き、ついでに飛鳥古京内をうろうろとしています。いつもは独行ですが、今回はふくださんが同行されました。

今年開催された「星々と日月の考古学」はキトラ古墳と高松塚古墳の天文星宿図を中心に古代日本人の天文知識や観念を考察する展覧会です。

キトラ古墳天文図
キトラ古墳天文図複製陶板より、北斗七星付近*1

キトラ古墳天文星宿図はようやく石室から取り外されましたが、修復も困難を極めていて、まだ実物を公開できる段階にはありません。そこで高松塚古墳の天文図と共に実物大精密写真による展示です。その分かなり至近距離から観察できました。

他には中国の淳祐天文図拓本、韓国の天象列次分野之図拓本もあわせて展示されました。

キトラ古墳天文図は、星や星宿・星座だけでなく、赤道、黄道、内規*2、外規*3が描かれ、「一見すると精密な天文図であったことから”現存する世界最古の天文図”として大いに騒がれました」(特別展の説明版および図録から引用 .... (^^;)。

ただ、発見当時から、天文図としてはいくつかのずれ、特に黄道の位置が実際とは大きく外れていることなどが指摘されていました。黄道については「歳差ではないか」というありがちな議論があったり(もちろん違います)。「世界最古」についても、別の天文図が最古を主張しているとか。

もっとも、だからといってキトラ天文図の価値が減ずることはありません。

高松塚古墳の星宿図は、北極星を中心に、二十八宿を周囲に並べたものですが、実際の星の配置を忠実に写したのではなく、よりデザイン化されています。天文図を描いた墓はアジアではよく見られ、日本もその影響を受けたと考えられますが、アジアでは高松塚古墳のようなデザイン化された配置が一般的とのこと。

一方、キトラ古墳は不正確な部分はあるものの、実際の天文図を原図として描かれたと考えられます。図録によれば、キトラ古墳の天文図を描いた/描かせた人々は、大陸での墳墓壁画の伝統を聞いてはいたものの実態に詳しくなかったため、逆に実際の天文図を利用して出来るだけ正確に描こうとしたのではないか、一方、高松塚古墳では、大陸の実態が知られるようになったのでデザイン化したのではないか、と論じています。

また、天文図は大宝律令成立後は国家機密として持ち出しや私有が禁じられたため、キトラ古墳天文図はそれ以前に描かれたのではないかとのこと。

中国などでもそうだったようですが、実は古代日本では天文は国家の占有物で、機密事項とされ、観測機器の持ち出しや私造私有、また天文を独自に勉強することも一切禁じられていたそうです。現代に生きていてよかった。

常設展示室では、キトラ古墳壁画を陶板で復元したものが展示されています。もちろん実物大。これ、昨年の朱雀特別公開でも展示されていました。石室の形に組み立てて、その中に入ることができます。漆喰の浮きあがりまで再現していて・・・体が当たったりしたら壊れるんじゃないかと思ったら、「背中のリュックなどは下ろして入ってください」と注意書きが。



隣には、壁画剥がしの作業の様子を説明したパネルと、剥がしに使った器具が置いてありました。マブチも―ターに受けるふくださん(^^)

*1 飛鳥資料館の常設展示は、撮影禁止の表示があるもの以外は原則撮影自由です。なお、本記事ではフラッシュは使用していません。特別展示は撮影禁止でした。

*2 北天で周極星として見える範囲

*3 北天から見える天空の範囲

水落遺跡

台風が沖縄沖を通過中。翌日か翌々日には近畿に最接近すると思われた日でした。荒れた天気ではありませんが一日中雨がしとしとと降っていました。

そんな中ですが、明石に出入りしている身で、飛鳥まで来て水落遺跡に行かないわけにはいきません。というわけで毎年行っているわけです。

ここは中大兄皇子がわが国で初めて造らせた水時計の跡。詳しくは同行者ふくださんのレポートをどうぞ。

飛鳥大仏、入鹿首塚、甘樫丘(あまかしのおか)

小雨の中を、水落遺跡から飛鳥寺まで徒歩で移動。ほぼ同じ集落内なのでかなり近い位置にあります。

飛鳥寺 飛鳥大仏

蘇我氏の氏寺として建立され、法興寺と呼ばれました。日本最古の寺院です。平城京遷都とともに現在の奈良市街地に移転し、「元興寺」となりました。しかし、元の寺も「本元興寺」と称して残されました。もとは塔を中心に3つの金堂が囲む大寺院でしたが焼失し、その後衰退しました。現在はもとの中金堂跡に本堂を建てた寺が残っています。現在の寺の公称は「安居院」ですが、一般に「飛鳥寺」の名で知られています。

この寺の「目玉」は「飛鳥大仏」と呼ばれる本尊銅造釈迦如来坐像です。推古天皇14年(西暦606年)に完成、以後、現在に至るまで同じ場所にあるとされます。実際には火災で損傷し、後世大幅に補修されているとのことですが。

寺の西には、乙巳の変で中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らによって暗殺された蘇我入鹿の首塚があります。

入鹿の首塚

もとの飛鳥寺の西門のすぐ外側。入鹿暗殺の直後、中大兄皇子は飛鳥寺に陣を構えて蘇我氏と対峙しています。

実は2005年になって、甘樫丘の南東部に入鹿邸とみられる遺構が発見されています。つまり中大兄皇子の軍勢から、入鹿邸の方を眺めるとこんな感じ。

飛鳥寺西門跡から入鹿邸方向を眺める

好きな景観の一つでして・・・・

酒船石

飛鳥を訪ねるのは最近毎年なので、毎年同じようなところを回って、毎回似たような事を書いているのですが、これもその一つかも(^^;

当初の予定では近鉄橿原神宮前で電車を降り、そこから自転車で回る予定でしたが、雨天のためにあきらめ、バスで資料館まで行きました。資料館からは雨の中を傘を差しながらとぼとぼと歩いて回っています。

飛鳥寺から酒船石へ。

酒船石は、バスの通る道から少し登ったところにあります。麓には亀型石造物。


飛鳥資料館のジオラマより。

亀型の方は有料ですが、酒船石は無料。ところが酒船石へ上る道から丸見えでした・・・昨年までは。今年は竹も伸び、生垣も茂り、もうほとんど見えなくなっています。

いつも思う事ながら、道のそばに、ごろんと転がっています。

石碑がなければ「こんな邪魔っけな大石、さっさとどかしてくれよ」と思うかも(思わん思わん^^;)。


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